誰にも相手にされず、家のために結婚することさえできずにいる。夜会ではいつも壁の花。友人達が婚約者と踊る姿を遠目に見ているだけだった。
その友人達も、既に結婚して子供がいる。それなのに私は父の役にも立てず、|脛《すね》をかじる生活だ。仕事を手伝おうにも、領地は従兄弟が回している。その従兄弟にも婚約者がいるから、私の出る幕は無い。
従兄弟とは近い内に養子縁組をする事になっていた。従兄弟は年上だから兄になる。仲も良好だから、邪険には扱われないだろう。それでも邪魔者な事には変わらない。領地経営を順当にこなしたら、この王都の屋敷に移り住んで、騎士団に入る予定だ。領地の自警団にも所属して、しっかり鍛錬を続けていて実力も折り紙付きだという。
領地は管理人に任せ、実務を王都で処理する。王宮に出仕する貴族は、基本この形を取っていた。たまに管理人が領地を乗っ取る話も聞くけれど、それは本当に稀だ。フェリット家の管理人は、何代にも渡り仕えてくれている信頼出来る人物で、私も幼い頃遊んでもらった。
思い出したら思わず笑ってしまい、ネフィが怪訝な顔をする。
あの頃は楽しかったな。婚約だとか、そんな事気にも止めないで、領地の山を走り回っていた。勉強も楽しくて、家庭教師の先生を質問攻めにして困らせたっけ。裁縫や料理も、少しずつ上達するのが嬉しかった。メイド達に手作りのお菓子や刺繍した小物を贈ると喜んでくれて。お世辞も混じっていたとは思うけど。
でも、それもお披露目パーティーを境に徐々に減っていった。十三歳で王都に来てから習ったのは、主にお茶会の作法。そこで手作りのお菓子を出すのは失礼だと言われた。刺繍は許されたけれど、それ以外の小物作りは淑女らしくないと止められ、その代わりにダンスを叩き込まれる。
正直、ダンスの練習は苦痛だった。友達でもない男性にくっつき、複雑なステップを練習させられ、靴も踵が高くてすぐに痛くなる。今はそれにも慣れたけれど、せっかく習得したダンスは披露する機会も無い。
小さく溜息を吐き、窓の外を見ると城門前の広場に差し掛かっていた。
大きな門と、|聳《そび》える城壁は圧巻だ。何度見ても威圧されるそれは、王家の権威を表している。このカイザークは海を擁する事から貿易が盛んで、その分税収も多い。夏には避暑地にもなるから、観光客にも好評だ。その上、この城の美しさ。国王も人徳者とあって、移住希望者も多いと聞いた事がある。城下町も栄え、いつも賑わって盛況だ。
――そんな国の王妃に、私が?
不意に頭を過ぎった考えに、私は震えた。
それはあまりに重い責務。一介の伯爵令嬢に過ぎない私に務まるのか。王妃ともなれば、幼い頃からの教育が求められる。お茶会にしたって、ただの世間話とは訳が違うのだから。相手は他国の王妃や姫君だろう。そこでの失態は国の威信に関わる。ひいては、私を望んでくださった殿下の失墜。
――それだけは嫌!
ここに来て、私は自分の考えの甘さに気が付いた。この婚約も殿下の気の迷いだと高を括り、貧相ななりを見れば、すんなり開放されると思い込んで。
でもそれは、殿下の進退に関わる事だ。こんな私を見初めてくださった殿下にご迷惑をおかけするなんて、そんな事あってはならない。この婚約は破棄してもらおう。父にも責め苦が行かぬようにして。
私が全てを背負う。
例え打首になっても、それが殿下の、この国のためだ。
そう心に決めて、開かれた扉から一歩、足を踏み出した。
そこに立っていたのは少し、いやかなりふくよかな少女。まだ幼いその少女は、レースやリボンが煩いドレスを身にまとい、ジャラジャラと髪飾りを鳴らしている。 燃える様な赤毛は、強烈な印象を与えた。緑の瞳も赤と相まって、気性の荒さを現している。その上ドレスはどぎつい農紫、金銀の装飾品も色とりどりの石が使われていた。全ての色が反発し合い、混沌としている。 しかし、紫を身に付けられるのは王族のみ。一瞬妹君かとも思ったけれど、殿下の態度で違うと分かる。 殿下は、私に向ける表情から一転。凍るような眼差しで少女を睥睨した。「誰が入室を許可した? 出ていけ」 殿下の言動から、おそらくこの少女がユシアン様なのだろう。冷たい殿下の声にも、ユシアン様は一歩も引かない。「アイフェルト様! その女は誰ですの!? 浮気は許しませんわよ!」 幼い少女だと言うのに、舌っ足らずな口調で出てくる言葉は擦れている。とても公爵令嬢とは思えない行動に、私は面食らってしまった。殿下は離れるどころか、見せつけるように私を抱きしめる。「浮気? この人は僕の婚約者だ。この世でただ一人のね。邪魔者は貴様の方。とっとと消えろ。目障りだ」 殿下、口調まで変わってませんか? そんな殿下にも負けないユシアン様は、ズカズカと部屋に入ろうとした。それに厳しい殿下の声が飛ぶ。「つまみ出せ」 殿下の命令で、壁際に控えていた侍従が動き出す。殿下の美しさに目を奪われてすっかり忘れていたけれど、この部屋にはネフィや侍従がいるんだった。先のやり取りを見られていたのかと、今更に頬が熱くなる。 侍従がユシアン様を押し返すと、ギャンギャンと喚く。本当に公爵令嬢なのか疑わしいその行動は、王
殿下は思わず叫んだ私をじろりと睨み、口を尖らせる。「酷いな。女の子だと思ってたの? 僕お嫁さんになってって言ったよ」 そう文句を口にしながらも私の手を引き、ソファへ座らせると何故か足の上に跨る。そのまま私に撓垂れ掛かって首に腕を絡ませた。「あの時、君は優しく手当してくれた。どこの誰とも分からない僕に。あの時から僕は君の虜だよ。この髪も瞳も、忘れた事は無い。やっと手に入れた。僕のリージュ……」 甘く囁く殿下の声が耳を擽る。頬を撫でながら近づいてくる殿下の顔に、私は気が動転してしまった。「で、殿下! お待ちになって……!」 胸を押して抵抗する私にも、殿下は余裕の表情だ。これではどちらが年上か分からない。「リージュ、照れてるの? 可愛い。もう食べちゃいたいよ」 そう言いながら、グリグリと腹部に押し付けられる硬い物。それの正体に気付いて血の気が引いた。「殿下!? あの、私達はまだ婚約者で、いや、それも解消していただけないかと……!」 私のその言葉を聞いた途端、殿下の瞳が剣呑に細められる。その瞳に射抜かれて喉がヒュっと鳴った。「婚約を解消? そんなのダメだよ。君は僕の妃になるんだ。まだ身体も小さくて満足させてあげられないけど、すぐ大きくなるから。僕が十六になったら結婚しよう。盛大な式を挙げて、国民に知らしめるんだ。未来の王妃がどれほど美しく、聡明なのか」 美しい!? 聡明!? 私が!? それはあまりに過ぎた評価だ。自分の容姿が平凡な事くらい自覚している。殿下にはどう映っているのだろうか。不敬だけれど、その目は濁っているのでは……。
王宮の玄関を入ると、広いエントランスが出迎えた。中央に敷かれた真っ赤な絨毯。磨きあげられた大理石の床。上階へと続く、重厚な階段。 全てが美しい。 幾度か訪れた場所だけれど、その度に呑まれてしまう。そこには既に家令が待っていた。一礼すると、先に立って歩き出す。その後に続くと、いつもならエントランスの真正面に位置する扉の奥、舞踏会場へ直行する所を素通りし、階段へいざなわれる。 長い廊下を歩き、到着したのは三階の部屋。その部屋は、扉の装飾も素晴らしかった。舞踏会場の扉は重厚だけれど簡素だから、ここが位の高い部屋だと一目で分かる。家令がノックすると「入って」と、ハイトーンの声が返ってきた。 扉が開かれると、家令が道を譲る。その脇を通って部屋に入ると、大きな窓から差し込む陽差しが目を焼いた。 そこにいたのは、本物の天使かと見まごう美しい少年。見事な金の髪は襟足が長く緩やかに波打ち、紫の大きな瞳が煌めいている。まだ背は小さく、私の肩に届くくらいだろうか。フリルがたっぷり取られたドレスシャツに、膝丈のハーフパンツ。白いレース地のハイソックスが足元を覆っている。 初めてそのご尊顔を拝見したけれど、一目で王太子殿下だと分かる。殿下はその美麗なお顔で優雅に微笑み、小鳥のような涼やかな声で私を呼んだ。「リージュ、会いたかった。この日をどれだけ待ったか。ああ、ドレスもよく似合ってる。凄く綺麗だ。さ、こっちにおいでよ。ここに座って」 棒立ちの私を急かしながら、ソファの隣を叩く。私は殿下の美しさに見惚れて、反応が遅れてしまった。はっと我に返り、礼を取る。「お初にお目にかかります。フェリット伯爵家が一女、リージュでございます。王太子殿下におかれましては……」 しかし、その言葉は殿下に遮られた。「何を言ってるのリー
誰にも相手にされず、家のために結婚することさえできずにいる。夜会ではいつも壁の花。友人達が婚約者と踊る姿を遠目に見ているだけだった。 その友人達も、既に結婚して子供がいる。それなのに私は父の役にも立てず、|脛《すね》をかじる生活だ。仕事を手伝おうにも、領地は従兄弟が回している。その従兄弟にも婚約者がいるから、私の出る幕は無い。 従兄弟とは近い内に養子縁組をする事になっていた。従兄弟は年上だから兄になる。仲も良好だから、邪険には扱われないだろう。それでも邪魔者な事には変わらない。領地経営を順当にこなしたら、この王都の屋敷に移り住んで、騎士団に入る予定だ。領地の自警団にも所属して、しっかり鍛錬を続けていて実力も折り紙付きだという。 領地は管理人に任せ、実務を王都で処理する。王宮に出仕する貴族は、基本この形を取っていた。たまに管理人が領地を乗っ取る話も聞くけれど、それは本当に稀だ。フェリット家の管理人は、何代にも渡り仕えてくれている信頼出来る人物で、私も幼い頃遊んでもらった。 思い出したら思わず笑ってしまい、ネフィが怪訝な顔をする。 あの頃は楽しかったな。婚約だとか、そんな事気にも止めないで、領地の山を走り回っていた。勉強も楽しくて、家庭教師の先生を質問攻めにして困らせたっけ。裁縫や料理も、少しずつ上達するのが嬉しかった。メイド達に手作りのお菓子や刺繍した小物を贈ると喜んでくれて。お世辞も混じっていたとは思うけど。 でも、それもお披露目パーティーを境に徐々に減っていった。十三歳で王都に来てから習ったのは、主にお茶会の作法。そこで手作りのお菓子を出すのは失礼だと言われた。刺繍は許されたけれど、それ以外の小物作りは淑女らしくないと止められ、その代わりにダンスを叩き込まれる。 正直、ダンスの練習は苦痛だった。友達でもない男性にくっつき、複雑なステップを練習させられ、靴も踵が高くてすぐに痛くなる。今はそれにも慣れたけれど、せっかく習得したダンスは披露する機会も無い。
今では、そんな戦争があった事さえ忘れかけられている。王都も戦禍に巻き込まれる事も無く終わり、国民に被害は出なかった。自国の戦争と言っても離れた国境で起こった出来事だ。関心も薄れるのが早い。我が家は曽祖父の恩恵にあずかっているから語り継いでいるけれど。 そんな|曾祖父《そうそふ》が、妻である曾祖母と出会ったのが現フェリット伯爵邸。旧友の妹として訪れた曾祖母に一目惚れした曽祖父はその場で求婚。妹を溺愛していた旧友と一悶着あったものの、無事に結婚できたと聞いている。 屋敷はレンガ造りの二階建て。蔦の絡まる古い母屋はそう広くはないけれど、庭にバラ園があり今は花の盛りを前に蕾が膨らんできている。私はそのバラ園が大好きだった。代々フェリット家の女主人が大事にしてきた場所。十三歳で王都に移住した私の成長は、このバラ園と共にあった。 殿下との結婚が実現したら、この屋敷とも別れなければならない。王宮と比べるなんて不敬かもしれないけれど、私にとってはかけがえのばい場所だ。帰って来れないなんて事はないと思うけれど不安は募る。 王妃としての仕事も多忙を極めるだろう。私は淑女教育を受けたとはいえ、それは貴族としての教育だ。王妃となるとまた勝手が違う。 溜息を吐く私に、ネフィが控えめに声をかけてきた。「リージュ様、殿下との婚姻はお嫌ですか? ︎︎貴族の令嬢ならば誰しもその地位を望みます。国母ともなればその権力は絶大です。何かお気になる事でも? ︎︎意中の殿方がいらっしゃる訳でも無いのでしょう? ︎︎この気を逃しては、ご結婚も難しくなってしまいます。それは私共としましても、あまりに不本意です。殿下は誠実な為人とお聞きしております。お歳は離れておいでですが、それも五つ差。きっと大事にしてくださいます。何より、殿下のご所望なのですから」 その口ぶりに、私は苦笑いを浮かべる。 私は別に、殿下を嫌っている訳では無いのだ。お会いした事も
お昼を過ぎて、午後一番に王宮からの迎えの馬車が到着した。汚れひとつ無い真っ白な車体は、金の縁どりが施され、国旗の御印である双頭の獅子が燦然と輝いている。二頭立ての馬も、毛並みが艶やかで、馬具も細かな部品ひとつまで洗練されていた。 |馭者《ぎょしゃ》の衣装も、うちの執事より上等だ。深緑のテールコートに揃いのベスト。ブラウスにはフリルがあしらわれている。ともすれば可愛くなってしまう装いも、壮年の男性なのに落ち着いた雰囲気でとても似合っていた。「お迎えに参りました。どうぞお手を」 屋敷の門の前に馬車を停めると、ひらりと降り立ち扉を開けて、恭しく私の手を取りエスコートしてくれる。その所作も美しく、さすが王宮勤め。馭者でさえこれだけ訓練の行き届いた人員がいるとは。 ネフィと共に馬車に乗り込むと、扉が閉じられる。椅子に腰かければ、その柔らかさに驚いた。我が家の最高級品であるサロンのソファより座り心地が良い。これなら屋敷から王宮までの道中も、お尻が痛くなる事は無いだろう。 ネフィも向かいに座り、落ち着くと馬車が走り出す。ここから王宮までは数十分の道のりだ。 我がフェリット家の王都での住居は、貴族街の片隅のある。今は伯爵家を名乗っているけれど、元子爵家。宛てがわれた区画が、市井の居住区に近かったのだ。|陞爵《しょうしゃく》された時に新居を構える事も提案されたらしいけれど、|曽祖父《そうそふ》や祖父は新しく屋敷を建てる事はしなかった。ここには思い出が詰まっているからと言って。領地にも屋敷はあるけれど、そちらは後継ぎである従兄弟が使っている。 貴族街は円形に王宮を取り囲み、中心部に近付くほど高位貴族の屋敷が連なっていた。我が家のその外周は男爵家が多く、屋敷も伯爵家には少し見劣りする佇まいだ。それでも私は気に入っていた。 遠ざかっていく屋敷を、ぼんやり見ながら馬車に揺られる。向かうはカイザークが誇る白亜の王宮。その美しさは世界でも指折りの荘厳さで、かつてはこの城を欲して、戦争を仕掛けてきた国もあった程だと言う。 それが曽祖父が戦功を上げたデウアスタ戦役。約七十年前に起こったこの戦争は五年に及んだ。 隣国ゲンジェードの当代国王ハミュット三世が進軍し、国境のデウアスタ草原での睨み合いが続いたのだ。 しかし、先に音を上げたのは戦争を吹っかけてきたゲンジェード。曽祖父が